この供養堂は、「太平記」に記されている大森彦七に関する遺跡の中で代表的なものの一つである。
正徳2年(1712年)、麻生の庄屋田中が、彦七の功を永く称えんとして、庄屋田中次兵衛及び五本松村小助、川井村忠左衛門の協力により建立した。
湊川の合戦で、楠正成を切腹させ豪勇をうたわれた彦七も、江戸時代後期、大日本史の南朝正統論の影響を受け、後醍醐天皇派を苦しめた逆賊と見なされた。
風雪にさらされた3つに折れた塔身は、彦七の末路の哀れさを無言で語っているようである。
碑面には、「長盛院殿大森彦七居士神儀」と刻まれている。
昭和62年8月 砥部町教育委員会
(以上供養堂内解説文)
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